昭和47年10月31日 朝の御理解



 御理解 第54節
 『徳の無い間は心配する、神徳を受ければ心配はない。』

 御神徳の世界に住まわせて頂いておると、云う事が分かる事が神徳を受ける事だと思います。神徳の中に生かされておる、神徳の中に、我が身は神徳の中に生かされて生きてあると言う事、ですから其処はどう言う様な、例えば難儀の様相と言うか、難儀の状態が有りましても、それを難儀とも心配とも感じないと言うのではないと、難儀はやはり難儀、心配は心配である。けれどもその難儀を心配を通して、分からしてもらう所があり、いわゆる悟らして貰う所が有る。
 其処に例えば不平不足ではない心配ではない、いわゆる悟り境地と言うのが有る訳です。人間生きておる間に心配がないとか、難儀がないと言う事は絶対にないと、有る。けれども神徳の中に生かされておると言う事を実感する。神徳の中に有ると言う事を感じる、何故なら神愛の中に有るんだと分からせて頂いておるから、その難儀も又は心配事も、心配になって心配になってたまらん、がその心配になる心を神様に向けて行く時にです、成程、此処も神徳の世界。
 神愛の中に有るんだと、分からしてもらうと言う事が私しは徳を受けた人達の姿だとこう思う。もうなあにも不安もなければ心配もない、勿論、難儀などもあろうはずもないと、言った様な事ではないと思う、神徳を受けると言う事は。それは子供には子供の難儀がある、大人には大人の難儀がある様に、神徳を受けると言う事、いわゆる信心が高度になれば高度に成れば成る程、言うなら高度な心配と言うものが、必ず付いて来ると思う。ですから子供達が心配してる様な事には勿論心配しませんよね。
 けれども大人には大人の心配がある様に。言わば難儀がある様に、だからこそ、教祖は一生が修行じゃと言う風にも仰っておられるのです。けれどもその修行の焦点と言うのがです、より高められる事の為の物なんです、より神徳が高められれて行く事の為。徳の無い間は心配する神徳を受ければ心配はない、神徳を受けたらなあにもない、まあ言うなら極楽浄土と、言う所があるやら知らんけれども、絵に見る極楽浄土と言うのは、それこそ蓮のうてなの上で、何時もそのじっと座っとると言った様な状態。
 果たしてその様な事が人間の幸せであろうか、もう言うなら百味の御食の中に、天女天人達が奏でる音楽を聞きながら、百味の御食を食させてもらいながら、蓮のうてなの上にちゃんと座っておると言う事が、果たして、それが極楽かもしれんけれども、その極楽が果たして幸せであろうか。私は極楽と言う事は、人間が幸せと言う事だと思う、幸せと感ずると言う時が極楽であると、形の上でそう言う整った事の中に、不安もなければ心配もないと、言った様な中にある事が人間の幸福ではない。
 人間の幸福と言うのは、神徳の中に生かされてある私、御神徳の中にある自分と言う者をハッキリ実感させて頂く、成程御神徳の中にあるんだなと。その御神徳の中にはね甘い事もあれば苦い事も有る、痛い事もあれば痒い事も有る。咄嗟に起きて来ると言うなら難儀と言うな問題もある、けれどもその全てがその全てが、神様に向けられてそこから一段と深められた信心、高められた御神徳に触れて行くそれはチャンスだと言う事。
 ですからもう何時も心を神様に向けておる、そして例えばそれが難儀である心配事であっても、その心配事の中からです、こう言う所が気ずかなかった、こう言う事が分からしてもろうたと。神様が一番喜んで下るのはね、そう言う例えば難儀と思うておる、心配事と思うておる、その事の中からね、その心配を克服する、その難儀を克服していくそして翻然としてその難儀心配の中から、自分の血に肉にして行く自分が育って行く元にさせて頂けれる、それが心に頂けた時です、神様のお喜びはあると思うです。
 私は神徳を受ければ心配はないと言う事は、皆さんが心配しておる様な事には心配致しませんよと言う事だと思うですね。例えば此処で言うならば私がですよ、教祖様の仰るなら、氏子皆が心配しておるけれどもね、皆が心配する様な事には、私は心配せんて済むのだと言う事だと思う。けれども教祖様には教祖様の御心配があったと思う、心配の度合が違うと言うだけの事、だからまあ普通のなら人間と言うか、普通の人が心配する様な事には心配しない 神徳を受けれれば心配はないと言うのはそう言う事。
 自分自信、自分自身の中に、だけ言うなら、心配又は難儀と感ずる事ですから。そこで私共は、そう言う悩みとか、心配とか苦しみと言う様な物から、やはり、解脱したい逃れたい、その逃れたいと言うて、逃れられる物ではない、よしそれは、一時押さえに逃れて見てもです、昨日のご理解ですね『余りの辛さに、外に出てみれば、外は吹雪きで尚見えぬ』と言う事である。
 昨日私はもう昨日の朝の御理解を聞いて下さっても分かる様に、まあ本当に信心の根本的な所が分かっていない、それを伝えきっていない。いや伝えておるけれどもそれを自分の物になら、皆がしきっていないと言う事に改めて言うならば、悲しさとでも申しましょうか空しさとでも言うでしょうか、そう言うものを考えさせて頂く一日でした。裏えおっても何か落ち着きませんから、此処え出て参りましてそれからあのう「和賀心時代を創る」此の本をもう何遍繰り返し。
 繰り返し読んだか知れませんけれども。不思議な御本ですよあの御本は、もうその度んびに違ったおかげを頂くです。昨日も半ば位読ませて頂いとりましたら、もうそれこそ涙にむせぶと言うですか、もう本当に感激致しました。言うならば其処に有る所の悲しみとか心配とかと言うものを超越したもの、それ以上の喜びと言うものが与えられる。丁度そう言う時に又ある人が又私の悲しさを又一段と悲しくさせる様な、お届けに見えたけれども。の時には私が今の体験を話させて頂いた。
 私も実はねあんたのお届けを聞いておると、その内容は違うけれども今日は朝から何とはなしに、まあ言うなら悲しい様な一日であったけれども、此の御本を「和賀心時代」読ませて頂いておったら、現在こんなにおかげを頂いておる。今の話をもし私が此の喜びを頂いていない時に、今のあなたのお届けを聞かせて頂いたら、一段と私の心は曇り私の心は悲しみになっていたかもしれないけれども、だからあなたも帰ったら直ぐ読みなさいち、おかげ頂くよと言うて帰した事でした。
 ですから是はそんなら神徳を受ければ心配はない、皆さんが心配する様な事には恐らく私は心配しないだろう、皆さんが悲しむ様な事に、私は悲しみはしないだろうとこう思う、それは私の信心の様子と言うものを見て頂ければ一番よう分かる事、皆さんが驚く様な事には私は驚かんですむとこう思う。けれどもです皆さんが気が付かない様な所に、そげな事で心配なさらんでん、そげな事を悲しみなさらんでんと言うような事にです、やはり心配はあるんだ、悲しみは有るんだと。
 けれども私はおかげを頂いて神徳の中にあると言う事、神愛の中にあると言う事を把握させて頂いておるから、それも又神様のお働きの中に有る事だと、思わせて頂くからと言うてもやはり、苦しい事は苦しい、悲しい事は悲しいのである。その苦しい事から言うなら悲しい事からです、その様な事を通して、今まで分かり得なかった事が分からしてもらい、今まで改まりえなかった所が改まらせてもらえれる、所から翻然としたいわば喜びと言うか、翻然とした違った、信心の境地と言うものが開けて来る。
 いかに神徳を受けても心配はないと仰せられてあるけれども、心配はあるんだ、けれどもその心配の度んびに神徳は深められて行くのだと。それでそれを後から考えて見るとです、あれもおかげであった此れもおかげであったと言う事になるのです。徳のない間は心配はする、是は例えば信心の無い間は心配すると言うても良いかもしれません、徳と言う事でもないけれども、信心させて頂く様になったら、不安で不安でたまらない、心配で心配でたまらない。
 だからお教会にお引き寄せ頂いてお取り次ぎ頂いて、御理解を頂きよったら心がスキットしてその心配がなくなった。そうたい神様にお任せしときゃいいと言う様な状態になれた、徳のない間は信心のない間はそう言う悩みやら苦しみと言うものは、やはり持ち続けてそしてそしてその悩みの心苦しみの心、心配の心で事がなされていくところに、なされる事が愈々それは極楽と地獄と言う言葉で言うならば、地獄の方へばっかりたどらせて頂く事になるのです。
 信心させて頂いておると信心のない間は心配をする、その心配で事をなすから、又心配が心配を生んで行く様な事になる、けれども信心させて頂く様になって心配も有るけれどもお取り次ぎ頂いてお願いさせて頂いたら、神様の御都合である事を分からしてもらう事になって来るとです、それが心配が心配ではなくて言わば信心させて頂いておると言う事が有難いと言う事になって来る。しかもそのあの信心させて頂いて心を神様に向けての心配であったり。
 悩みである事はやはりもう心の成長がもう、非常に飛躍したおかげが受けられると言う事です。それを神様の方え持って行かなかったら、いわゆるしだこだになりましょうけども、その悩みとか心配とか、普通ではそう言う事がどうして心配なんだろうかと言う様な事でも、それはえらい心配性の人が有る、そしてその心配が人よりえらい深刻である。そう言う人はです信心を確かに深めて行く事ができます、まあー何て申しますか普通で言う楽天家とこう言うですね。
 いかにも楽天家の人はおかげは受けておるけれども、信心が平盤です楽天的な人は必ず。此処でも例をあげてご覧んなさい、楽天的な人は信心は熱心に出来ておるけれども深みがない、所が深刻性の人が居ります心配、もう心配になるんですそれをもう言わば放っておけないと言う人がおる。だからそう言う人がそんなら信心をすると、その事によって信心が一段と深められる。やはり難儀はなからなければいけない、心配もなからなければいけないだからこそ本当の極楽と云う物をも、味合わせて頂く事が出来るのだ。
 だからこそ愈々神徳の世界を愈々一段深い、愈々人間の幸せに、直結する所のまぁ状態。いかにも安気安呑、百味の御食の中に素晴らしい例えば音楽を聞きながら、蓮のうてなの上に座っておる、普通ではそれが極楽の様に言うけれども、もうこんなに退屈しごくな事はなかろうと私は思う。蓮のうてなの上にちゃんと座って、なる程音楽は聞こえてきよる、天人さんが奏でなさる音楽がもう、たえなる音が聞こえてくる、はああれが食べたいなぁと思うと パット自分の前に食べたい物が表れて来る。
 けれどもこげん私は退屈な事はなかろうと思う、もしそうであるとするなら、決してだから神徳の世界と言うものはそう言うもんじゃない、心配もある悩みもある苦しみもある、けれどもその中から真の信心をより良い信心を、身に付けて頂く精進をする手立てと言うかそう言う道を私共が体得して行きよると言う事が神徳を受けた人達の姿である。又は人間の幸せを本当に味あう事のできる人達である。
 と言う風に今日は聞いて頂いた。神徳を受ければ心配はない。成程今此処で言うならば皆さんが心配しとる様な事には心配しとらん、けれども私には私の心配があると言う事。それなら先生は神徳を受けちゃゃないかと言うと、決してそうではない、神徳を受けておるからこそ神徳を受けて居るからこその心配である。その心配が又一段と私の信心を高度なものにして行くと言う事になるのです。そしてそう云う都度、都度に翻然として分からして頂くその喜びと言うものは。もうそれはね何物にも替えられない。
 してみるとそんなら、現在苦しんでおると言う事もです。そう言うおかげの頂けれる事の為の苦しみですから、言わば和賀心時代を創る読ませて頂いて、苦しい事は同じなんだけれどもその苦しい事よりも、もっともっと有難い境地が与えられる。そこからです、ね。言わば苦しみが消えて行く様な感じがする。今日は神徳を受ければ心配はないと、仰せられる事に対する事の解釈で御座いましたね。
 皆さんでもそうです皆さんのお家に信心の無い人達が心配をしておる姿を見てから、自分は一つも心配しておらないと言う事実が御座いますでしょう、それだけの相違を感じる。信心が高められれば高められる程、神徳を受ければ心配はないであって、神徳を受けたら受けた時点で心配はある。けれどもそれをいよいよ真の信心を深め高めて行く事の為の心配であっって、言い換えるとそれは心配ではなくて親愛だと言う結論が出る訳ですね。   どうぞ。